2025年2月号
「第11回:釉薬の掛け分け」
立春が間近に迫り、梅の香が漂う季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。当館では現在『千変万化―革新期の古伊万里―』(〜3月30日(日))を開催中。17世紀中期の伊万里焼を「色絵の登場」「染付の発展」「成形の妙技」「釉薬の趣向」の4つの観点からご紹介しております。今月の学芸の小部屋では「釉薬の趣向」の中でも、1つのうつわの中で2色以上の釉薬を使用した作例に注目いたします。
伊万里焼において基本的に使用される釉薬としては、透明釉が挙げられます。うつわに施す前は白濁した液体ですが、本焼き焼成によってガラス化して透明に変化。伊万里焼の胎土は白であるため、焼き上がったうつわは釉薬を透かして白く見えるようになります。透明釉のほか、青色の瑠璃釉(るりゆう)、青緑色の青磁釉(せいじゆう)、褐色の銹釉(さびゆう)のように色のついた釉薬も用いられています(図1)。瑠璃釉は透明釉に呉須(ごす/酸化コバルトを発色の材料として青く発色する)を加えたもの。青磁釉は透明釉に1~2%程度の酸化第二鉄を混ぜ込んだもので、還元炎焼成によって青緑色を呈します。銹釉も酸化第二鉄が発色の材料ですが、青磁釉よりも多く含みます。以上の4色の釉薬は、1610年代に伊万里焼が誕生した後、1630年代までには出揃うとされています。

これらの釉薬は単体で使用されることもありますが、「青磁瑠璃銹釉 鶴亀松竹梅文 三足皿」のように1つのうつわに2色以上の釉薬を施すこともあり、それを「掛け分け」と呼びます。掛け分けは1630年代以降に出現するとされており、いわゆる初期伊万里の様式を持つ作例もありますが、17世紀中期に作例が増加します。また、ひと口に掛け分けと言っても、手順や手法は様々です。
例えば、「青磁瑠璃銹釉 鶴亀松竹梅文 三足皿」の場合は、釉薬を筆にとってまるで絵具のようにして塗る「塗り分け」の手法が採られています。器面に施された凹凸があり、それに沿って丁寧に筆で釉薬を置いていくことで、釉薬同士が混ざり合うことなく、綺麗に発色しています(図2)。
銹釉染付 楼閣山水文 瓶」は、筆跡がよりはっきりと見える作例(図3)。胴部を畝で区切ってゆるやかな六角形とし、畝の内側は染付で山水文を描いて透明釉を施しています。残る畝や胴裾、高台にかけては光沢の少ない質感の銹釉を塗り分けており、刷毛のような太めの筆跡が残ります。薄い銹釉を何度も重ねたのか、はたまた薄い銹釉の上に濃い銹釉を重ねたのか。幾度も筆を重ねたような様子は、単なる塗りムラではなく、「景色」として筆跡を残すことを企図しているように感じられます。実際、類品として同形の「銹釉青磁染付 竹文 瓶」があり、こちらは濃い銹釉をムラなく施していますので(図4)、塗ろうと思えば筆跡を残さず塗れたはずでしょう。「銹釉青磁染付 竹文 瓶」の場合は、染付で竹文を描いている面は部分的に透明釉を、無文の面には青磁釉を掛け分けるという凝りようです。「銹釉染付 楼閣山水文 瓶」や「銹釉青磁染付 竹文 瓶」は筆運びの様子から、総体を筆で塗り分けて施釉したものと考えられます。
「瑠璃釉色絵 丸文 皿」の場合は、菊花や扇、鼓、幾何学文などを描いた丸文部分は透明釉を塗っていますが、そのほかは裏面や高台内に至るまで、畳付を除いて総体に瑠璃釉を施し、ほとんどムラは見られません(図5)。よって、丸文部分に撥水剤を塗るなどしてマスキングしておき、液体状の瑠璃釉にくぐらせて全体を施釉、畳付をぬぐって、マスキングを除去した後に丸文部分に筆で透明釉を塗り分けたと考えられます。ちなみに、丸文内の文様はすべて上絵付けですので、本焼き焼成が終わった後に施しています。
以上のように、「塗り分け」の場合も、総体を筆で塗り分けるほか、筆の塗り分けは部分的にとどめてマスキングを活用した全体への施釉を併用するなど、様々な手順・手法の作例が見られます。 筆は使わずに2色以上の釉薬を施す方法もあります。「瑠璃銹釉 碗」は、銹釉を主体として瑠璃釉を部分的に施釉した平茶碗(図6)。表裏の施釉箇所が一致することから、液体状の釉薬に碗の片側だけ浸し、乾いたところで反対側をもう一色の釉薬に浸したものでしょう。文字通り釉薬を「掛け分け」た作例と言えます。
最後に、「掛け流し」の例もご紹介いたします。時代は上りますが、「瑠璃釉 葦文 稜花皿」は表面に淡い瑠璃釉、裏面には透明釉を施し、見込に葦文をあらわした作品(図7)。表面の瑠璃釉は、柄杓などで掬って掛け流したものと推測され、裏面にも多少の釉垂れが生じています。
このように掛け流しによって表裏に別色の釉薬を施した作例としては、17世紀中期も引き続き上質な変形小皿などが見られ、やはり裏面への釉垂れが見られるものが少なくありません。
そして、その一部は前期の鍋島焼にも受け継がれていきます。17世紀後半の中でも早い段階の作例である「薄瑠璃釉色絵 唐花文 皿」は、表面に掛け流した淡い瑠璃釉が裏面にも大胆に垂れています(図8)。「瑠璃釉 葦文 稜花皿」にあるような掛け残しは見られず、裏面および表面の唐花文部分は透明釉を施していますので、表裏の掛け分けというよりも、表面も含めて透明釉は全体に施し、部分的に瑠璃釉を掛け流したなどの可能性が想定されます。同意匠品が数点知られていますが、いずれも大きく釉垂れしており、偶然ではなく作為的に流したものでしょう。興味深いことに、同様の意匠で、表面に掛け流した瑠璃釉が裏面にまで到達している陶片が、初期の鍋島藩窯と考えられている日峯社下窯跡(にっぽうしゃしたかまあと)から出土しています。相違点として、日峯社下窯跡出土品は高台が高く、鋸歯文をめぐらせており、鍋島様式の萌芽が認められます。前期の鍋島焼の変形小皿には、他にも表裏に別色の釉薬を施し、かつ掛け流しによる釉垂れが裏面に渡る作例があり、釉垂れは偶発的なものでは無く、当時好んで作られていた「景色」と考えられます。
しかし、前期鍋島の掛け流しは、規格化が進み鍋島様式が完成する17世紀末期には見られなくなってしまいます。同じく、伊万里焼についても掛け流しの手法は、17世紀後半以降西洋からの需要が増えて輸出時代を迎えると次第に消えていきます。
以上のように、17世紀中期には様々な手順・手法で複数種類の釉薬の掛け分けが行われていました。掛け分け自体は17世紀後半以降も引き続き行われますが、とくに裏面への釉垂れを伴う掛け流しについては、しばらく前期の鍋島焼へも引き継がれるものの、次第に見られなくなってしまう手法であり、17世紀中期の伊万里焼の多様性の一端を示していると言えるでしょう。輸出時代の到来、そして鍋島焼への分岐という時代の波に飲み込まれて行ってしまいますが、当時の感性には目を見張るものがあります。『千変万化―革新期の古伊万里―』は3月30日までの開催。17世紀中期の伊万里焼の多様性をお見逃しなくご覧くださいませ。
【主な参考文献】
・大橋康二『考古学ライブラリー55 肥前陶磁』ニュー・サイエンス社2001
・藤原友子「初期伊万里の技法―装飾技法を中心に―」『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』NHKプロモーション2004
・佐賀県立九州陶磁文化館『将軍家献上の鍋島・平戸・唐津―精巧なるやきもの―』同2012
伊万里焼において基本的に使用される釉薬としては、透明釉が挙げられます。うつわに施す前は白濁した液体ですが、本焼き焼成によってガラス化して透明に変化。伊万里焼の胎土は白であるため、焼き上がったうつわは釉薬を透かして白く見えるようになります。透明釉のほか、青色の瑠璃釉(るりゆう)、青緑色の青磁釉(せいじゆう)、褐色の銹釉(さびゆう)のように色のついた釉薬も用いられています(図1)。瑠璃釉は透明釉に呉須(ごす/酸化コバルトを発色の材料として青く発色する)を加えたもの。青磁釉は透明釉に1~2%程度の酸化第二鉄を混ぜ込んだもので、還元炎焼成によって青緑色を呈します。銹釉も酸化第二鉄が発色の材料ですが、青磁釉よりも多く含みます。以上の4色の釉薬は、1610年代に伊万里焼が誕生した後、1630年代までには出揃うとされています。

これらの釉薬は単体で使用されることもありますが、「青磁瑠璃銹釉 鶴亀松竹梅文 三足皿」のように1つのうつわに2色以上の釉薬を施すこともあり、それを「掛け分け」と呼びます。掛け分けは1630年代以降に出現するとされており、いわゆる初期伊万里の様式を持つ作例もありますが、17世紀中期に作例が増加します。また、ひと口に掛け分けと言っても、手順や手法は様々です。
例えば、「青磁瑠璃銹釉 鶴亀松竹梅文 三足皿」の場合は、釉薬を筆にとってまるで絵具のようにして塗る「塗り分け」の手法が採られています。器面に施された凹凸があり、それに沿って丁寧に筆で釉薬を置いていくことで、釉薬同士が混ざり合うことなく、綺麗に発色しています(図2)。

銹釉染付 楼閣山水文 瓶」は、筆跡がよりはっきりと見える作例(図3)。胴部を畝で区切ってゆるやかな六角形とし、畝の内側は染付で山水文を描いて透明釉を施しています。残る畝や胴裾、高台にかけては光沢の少ない質感の銹釉を塗り分けており、刷毛のような太めの筆跡が残ります。薄い銹釉を何度も重ねたのか、はたまた薄い銹釉の上に濃い銹釉を重ねたのか。幾度も筆を重ねたような様子は、単なる塗りムラではなく、「景色」として筆跡を残すことを企図しているように感じられます。実際、類品として同形の「銹釉青磁染付 竹文 瓶」があり、こちらは濃い銹釉をムラなく施していますので(図4)、塗ろうと思えば筆跡を残さず塗れたはずでしょう。「銹釉青磁染付 竹文 瓶」の場合は、染付で竹文を描いている面は部分的に透明釉を、無文の面には青磁釉を掛け分けるという凝りようです。「銹釉染付 楼閣山水文 瓶」や「銹釉青磁染付 竹文 瓶」は筆運びの様子から、総体を筆で塗り分けて施釉したものと考えられます。


「瑠璃釉色絵 丸文 皿」の場合は、菊花や扇、鼓、幾何学文などを描いた丸文部分は透明釉を塗っていますが、そのほかは裏面や高台内に至るまで、畳付を除いて総体に瑠璃釉を施し、ほとんどムラは見られません(図5)。よって、丸文部分に撥水剤を塗るなどしてマスキングしておき、液体状の瑠璃釉にくぐらせて全体を施釉、畳付をぬぐって、マスキングを除去した後に丸文部分に筆で透明釉を塗り分けたと考えられます。ちなみに、丸文内の文様はすべて上絵付けですので、本焼き焼成が終わった後に施しています。

以上のように、「塗り分け」の場合も、総体を筆で塗り分けるほか、筆の塗り分けは部分的にとどめてマスキングを活用した全体への施釉を併用するなど、様々な手順・手法の作例が見られます。 筆は使わずに2色以上の釉薬を施す方法もあります。「瑠璃銹釉 碗」は、銹釉を主体として瑠璃釉を部分的に施釉した平茶碗(図6)。表裏の施釉箇所が一致することから、液体状の釉薬に碗の片側だけ浸し、乾いたところで反対側をもう一色の釉薬に浸したものでしょう。文字通り釉薬を「掛け分け」た作例と言えます。

最後に、「掛け流し」の例もご紹介いたします。時代は上りますが、「瑠璃釉 葦文 稜花皿」は表面に淡い瑠璃釉、裏面には透明釉を施し、見込に葦文をあらわした作品(図7)。表面の瑠璃釉は、柄杓などで掬って掛け流したものと推測され、裏面にも多少の釉垂れが生じています。

このように掛け流しによって表裏に別色の釉薬を施した作例としては、17世紀中期も引き続き上質な変形小皿などが見られ、やはり裏面への釉垂れが見られるものが少なくありません。
そして、その一部は前期の鍋島焼にも受け継がれていきます。17世紀後半の中でも早い段階の作例である「薄瑠璃釉色絵 唐花文 皿」は、表面に掛け流した淡い瑠璃釉が裏面にも大胆に垂れています(図8)。「瑠璃釉 葦文 稜花皿」にあるような掛け残しは見られず、裏面および表面の唐花文部分は透明釉を施していますので、表裏の掛け分けというよりも、表面も含めて透明釉は全体に施し、部分的に瑠璃釉を掛け流したなどの可能性が想定されます。同意匠品が数点知られていますが、いずれも大きく釉垂れしており、偶然ではなく作為的に流したものでしょう。興味深いことに、同様の意匠で、表面に掛け流した瑠璃釉が裏面にまで到達している陶片が、初期の鍋島藩窯と考えられている日峯社下窯跡(にっぽうしゃしたかまあと)から出土しています。相違点として、日峯社下窯跡出土品は高台が高く、鋸歯文をめぐらせており、鍋島様式の萌芽が認められます。前期の鍋島焼の変形小皿には、他にも表裏に別色の釉薬を施し、かつ掛け流しによる釉垂れが裏面に渡る作例があり、釉垂れは偶発的なものでは無く、当時好んで作られていた「景色」と考えられます。

しかし、前期鍋島の掛け流しは、規格化が進み鍋島様式が完成する17世紀末期には見られなくなってしまいます。同じく、伊万里焼についても掛け流しの手法は、17世紀後半以降西洋からの需要が増えて輸出時代を迎えると次第に消えていきます。
以上のように、17世紀中期には様々な手順・手法で複数種類の釉薬の掛け分けが行われていました。掛け分け自体は17世紀後半以降も引き続き行われますが、とくに裏面への釉垂れを伴う掛け流しについては、しばらく前期の鍋島焼へも引き継がれるものの、次第に見られなくなってしまう手法であり、17世紀中期の伊万里焼の多様性の一端を示していると言えるでしょう。輸出時代の到来、そして鍋島焼への分岐という時代の波に飲み込まれて行ってしまいますが、当時の感性には目を見張るものがあります。『千変万化―革新期の古伊万里―』は3月30日までの開催。17世紀中期の伊万里焼の多様性をお見逃しなくご覧くださいませ。
(黒沢)
【主な参考文献】
・大橋康二『考古学ライブラリー55 肥前陶磁』ニュー・サイエンス社2001
・藤原友子「初期伊万里の技法―装飾技法を中心に―」『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』NHKプロモーション2004
・佐賀県立九州陶磁文化館『将軍家献上の鍋島・平戸・唐津―精巧なるやきもの―』同2012